8. 影響を受けた先輩農業者の話

こんにちは。

ASTROBERRYの坂井です。

今日は坂井が影響を受けた先輩農業者のことを書いてみます。

 

藤原長作さん

私が農業を始めた頃に祖父から勧められ読んだ本があります。
「米に生きた男:日中友好水稲王 藤原長作」という一冊です。
1993年に出た本なのでちょうど30年前です。祖父が農協から推薦本として購入し読了したものでした。

「面白いから読んでみろ」
と祖父の本棚から取り出して手渡され、読んでみました。

確かに面白かったのです。

藤原さんは第二次大戦中に青春時代を生きた方で、若い頃は炭焼きの達人。
専ら仕事に打ち込む人で、お祭りなどの地域行事にさえ全く顔を出さず、朝から晩まで仕事一筋の青年だったようです。
戦時中も炭焼きの腕を買われて戦地には行かず炭焼き要員として職を当てがわれました。

そんなエピソードから藤原さんの人柄が伝わってきます。

藤原さんは岩手の山間地に暮らしており、農業には苦労しました。
戦中戦後といえば食糧難ですから、何よりも優先されたのは稲作です。
国を挙げてお米の生産量増加に取り組んでいました。
藤原さんのいた岩手の山間の村は日当たりが悪く気温も低い。
お米はまともに育たず、代わりに粟や稗など雑穀を育てるしかなかった。
そんななか、藤原さんは持ち前の熱心さで米作りに打ち込み、研究に研究を重ねたんですね。
化学肥料も育苗のための温床も無い時代に、創意工夫と研究によって独自の栽培技術を生み出していきました。
ひいては朝日新聞社が開催する「米作日本一表彰会」において日本一の収量を誇る生産者と評されるまでになります。
圧倒的な地理的不利を技術で乗り越え、戦後の稲作振興に大きく貢献したのです。

ところが藤原さんの運命は思わぬ方角へと流されてしまいます。

米作り振興から減反政策へと農業政策が方向転換。米を作るな、米作りを減らすなら補助金を出す、というそれまでとは正反対の状況下となります。

藤原さんは米作りに精魂を費やしてきた人です。
懸命に進んできた一本道の梯子を外され、やり場のない憤りに苛まれ、一時は酒浸りにまで落ち込みます。

それでも自宅前の1枚の田んぼでだけは稲を作り続け、米作りを捨てることはできませんでした。

そして米作りを捨てられなかった藤原さんに新しい扉が拓きます。

中国に渡って稲作の指導。

米と共に生き、米と共に泣き、米に生かされ、米を生かし。
藤原長作という農業者の人生を知り、深く心を打つものを感じました。

坂井が最も影響を受けた農業者は藤原さんです。

こういう農業者になれたら幸せだろう。と思いました。

 

藤原さんの進路を塞いだ減反政策。
農業者と農業政策が真っ向から対立した歴史です。
それとは対照的に農業者と農業政策、そして農協の3者が連動して農業を開拓した事例が栃木のいちごにありました。

次回はそのことについて書いてみようと思います。

それでは。